本法寺は興国寺城主河毛宗左衛門尉重次の菩提寺である。法華宗大本山光長寺の末寺で開山は日養である。山号はもと愛鷹山であったが改められ興国山となっている。
天正18年(1590年)、小田原北条氏の滅亡によって徳川家康が関東に移封されると、駿河国は豊臣秀吉の武将、中村式部少輔一氏の領地となり、一氏は駿府城主となった。一氏の弟、中村彦左衛門一栄は三万石の所領を与えられ三枚橋城主となり、一氏の家臣であった河毛重次が興国寺城主となった。
天正18年12月に阿野荘大泉寺(井出)に宛てた重次の寺領安堵手形には、「則ち拙者興国寺城代として立つるのことかくの如し」と記されている。
重次は慶長6年(1601年)関ヶ原の役の功により中村氏が伯耆国(鳥取県)に移封されるとこれに従い、かわって天野三郎兵衛康景が城主となった。
本法寺は重次が興国寺城在城中に菩提寺として建立されたとも伝えられており、境内には重次の墓がある。諡号は妙冷院殿宗感日徳居士である。また、重次の遺品も伝えられている。
本法寺周辺はその小字名「大上畑」が示すように興国寺城の城域内であったと考えられ、空堀、土塁の痕跡も残されている。
本法寺本堂
河毛宗左衛門尉重次の墓
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