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弥生時代

2018年4月1日更新

稲作が行われる(雌鹿塚遺跡など)

縄文時代の末ごろから簡単な農業が行われ始めたが、次の弥生時代になると、大陸から新しい農耕技術が伝えられ、水田が開け、稲作が盛んになった。そのため、住居地は台地から低地へと移り、定住するようになった。

昭和31年(1956年)秋、かつての愛鷹中学校の校地を拡張することになり、南側のグランドを東へ広げるために土をけずったところ、土器類が次々と発見された。目黒身遺跡の発見であった。最近ではこのように、遺跡は道路・施設などの建設のための土木工事によって発見されることが多くなった。

沼津の弥生時代の遺跡は、当時の湿地に沿った低地や自然堤防上に数多く発見されている。雌鹿塚遺跡には、2~3戸の家の前に、その家と対応するように水田が残されており、木製の農具なども数多く発見されている。水田の遺跡は、すべて狩野川の支流や浮島沼の周辺にあり、水気の多い自然の湿地帯のみが耕作地として利用できたことをうかがい知ることができる。人々は収穫した米を籾のまま倉庫に納め、必要に応じて脱穀して食べたようである。

  • 上から見た八兵衛洞遺跡集落跡。茶色い土の上に円形の遺跡跡があります。
    八兵衛洞遺跡集落跡
  • 弥生時代の集落を想像した、住居が点在しているイラストです。
    八兵衛洞遺跡想像図

また、八兵衛洞遺跡や、植出遺跡の住居群に見られるように、弥生時代の遺跡が縄文時代の遺跡よりも高い台地に点在しているものがある。これは、弥生時代にはまだ稲作技術も低く、水田からの米だけでは集団の生活をまかないきれなかったために、一部の集団は台地で畑作なども行っていたと考えられている。

土器も変わり、いわゆる弥生土器が使われた。壺・嚢・高杯・鉢など用途によりさまざまな形があり、縄文土器よりも焼成温度が高いため薄手で比較的じょうぶになり、表面は明るい褐色をしているものが多い。ほとんど粘土ひもを巻き上げて作られており、文様は縄文土器よりも簡単になっている。

弥生時代は、年とともに農耕が進み、くわ・すき・きね等の道具類もすぐれたものを使うようになった。また、石器は金属器がひろまると急速に消滅していき、沼津にも銅鐸や銅の腕輪が見られるようになった。農耕が進むにしたがって、各地に集落が開け多くの「ムラ」ができ、やがて、身分の差や貧富の差が生じ、さらに大集団から小国家へと発展していった。沼津のあたりでも、富士川以西の土器と以東の土器というような明らかな違いが認められたものが、やがて、区別がむずかしいほど似てくるのは、政治的に統一が進んできたことの一つの現われかもしれない。

  • 上から見た雌鹿塚遺跡全景。
    雌鹿塚遺跡全景
  • 上から見た雌鹿塚遺跡遺構全景。
    雌鹿塚遺跡遺構全景
  • 別々に作られた胴体と羽を重ねて鳥の形となっている木製品
    雌鹿塚遺跡出土鳥形木製品
  • 長さ5センチメートル弱の鹿形の土製品
    雌鹿塚古墳出土鹿形土製品
  • 八兵衛洞、雌鹿塚の位置を示した地図
    弥生時代遺跡地図

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