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三枚橋城

2018年4月1日更新

江戸時代の沼津の変遷

関ヶ原の戦い後、三枚橋城は大久保忠佐が城主となった。慶長18年(1613年)、忠佐の死によって、跡継ぎがいないという理由で廃城となった。

その後、沼津は徳川頼宣(紀州藩)・天領・徳川忠長(駿河大納言)と領主が変わっているが、寛永10年(1633年)からは江戸幕府の直轄領となり、代官支配の時代になった。 安永6年(1777年)に、三河(愛知県)大浜の水野氏が沼津を加封され、荒廃した三枚橋城の跡に沼津城を築いて8代約90年間続き、明治維新をむかえた。

  • 積み上げられた石の写真
    三枚橋城石垣
  • 上空から見た三枚橋城発掘の様子
    三枚橋城発掘の様子
  • 沼津市三枚橋城石垣モザイク(北面・南面)

三枚橋城主

城主一覧
城主名 身分 城主となった年代 在職年 支配者
高坂源五郎 城代 天正5年(1577年) 5年 武田勝頼
松平康親 城主 天正10年(1582年) 1年 徳川家康
松平康重 城主 天正11年(1583年) 7年 徳川家康
中村一栄 城代 天正18年(1590年) 11年 豊臣秀吉
大久保忠佐 城主 慶長6年(1601年) 12年 徳川家康

大久保治右衛門忠佐

天文6年(1537年)、三河(愛知県)の松平(後の徳川)の家臣大久保忠員の次男として生まれた。忠佐は各地で奮戦し、勇名をとどろかせた戦国武将であった。有名な大久保彦左衛門の兄である。 慶長6年(1601年)、三枚橋城主となり、のちに入道して道喜といった。慶長18年(1613年)、77歳で死去し、東間門の妙伝寺に葬られた。後継者がなかったので大久保家は絶え、三枚橋城は廃城となった。

現在、沼津市立第一小学校の校庭内に忠佐の道喜塚がある。
大久保治右衛門忠佐の墓(妙伝寺)

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