江戸時代の沼津の変遷
関ヶ原の戦い後、三枚橋城は大久保忠佐が城主となった。慶長18年(1613年)、忠佐の死によって、跡継ぎがいないという理由で廃城となった。
その後、沼津は徳川頼宣(紀州藩)・天領・徳川忠長(駿河大納言)と領主が変わっているが、寛永10年(1633年)からは江戸幕府の直轄領となり、代官支配の時代になった。
安永6年(1777年)に、三河(愛知県)大浜の水野氏が沼津を加封され、荒廃した三枚橋城の跡に沼津城を築いて8代約90年間続き、明治維新をむかえた。
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三枚橋城石垣 -
三枚橋城発掘の様子
三枚橋城主
城主名 | 身分 | 城主となった年代 | 在職年 | 支配者 |
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高坂源五郎 | 城代 | 天正5年(1577年) | 5年 | 武田勝頼 |
松平康親 | 城主 | 天正10年(1582年) | 1年 | 徳川家康 |
松平康重 | 城主 | 天正11年(1583年) | 7年 | 徳川家康 |
中村一栄 | 城代 | 天正18年(1590年) | 11年 | 豊臣秀吉 |
大久保忠佐 | 城主 | 慶長6年(1601年) | 12年 | 徳川家康 |
大久保治右衛門忠佐
天文6年(1537年)、三河(愛知県)の松平(後の徳川)の家臣大久保忠員の次男として生まれた。忠佐は各地で奮戦し、勇名をとどろかせた戦国武将であった。有名な大久保彦左衛門の兄である。
慶長6年(1601年)、三枚橋城主となり、のちに入道して道喜といった。慶長18年(1613年)、77歳で死去し、東間門の妙伝寺に葬られた。後継者がなかったので大久保家は絶え、三枚橋城は廃城となった。
現在、沼津市立第一小学校の校庭内に忠佐の道喜塚がある。
大久保治右衛門忠佐の墓(妙伝寺)
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