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沼津城

2018年4月1日更新

沼津に水野藩が置かれ、沼津城ができる

安永6年(1777年)、水野忠友は、十代将軍徳川家治から沼津城地を拝領し、三河(愛知県)の大浜より沼津へ移り、荒廃した三枚橋城の跡に沼津城を築いた。この城は観潮城ともいわれ、富士を背後に南は狩野川から千本松原ごしに駿河湾が望まれる美しいながめであった。

富士山や狩野川を望む観潮城といわれた沼津城

沼津城模型

水野藩歴代沼津城主

水野藩歴代沼津城主一覧
城主名 城主となった年代 幕府役職
1 忠友(ただとも) 安永6年(1777年) 老中
2 忠成(ただあきら) 享和2年(1802年) 老中
3 忠義(ただよし) 天保5年(1834年)  
4 忠武(ただたけ) 天保13年(1842年)  
5 忠良(ただなが) 天保15年(1844年)  
6 忠寛(ただひろ) 安政5年(1858年) 側用人
7 忠誠(ただのぶ) 文久2年(1862年) 老中寺社奉行
8 忠敬(ただのり) 慶応2年(1866年) 甲府城代

水野家は古くから有力な譜代大名の家柄であった。初代沼津城主忠友は、7千石の旗本から三河大浜の領主となり、加封されて沼津2万石の大名となった。忠友は幕府にあって、つぎつぎと要職につき、老中にまでなり老中筆頭田沼意次とともに権勢をふるった。

忠友以後も老中・側用人・寺社奉行などの要職についた者がでて、領地も加増されて5万石になった。また、幕末の内外情勢が多難な時には、下田に出張したり、長州征伐の一将となったりした藩主もいた。
慶応4年(1868年)、8代藩主忠敬が上総(千葉県)の菊間に移封されるまで、水野家による支配が約90年間続いたのであった。

沼津藩の藩域は、城下町として本町・上土・三枚橋があり、東は下石田から西は小諏訪まで、北は裾野市葛山から南は口野までであった。

沼津藩の藩政のしくみは、城内に町の政治を行う町方、周辺の政治を行う地方、財政をとり扱う御勘定所がおかれ、国家老以下三重臣がそれぞれを担当した。また、町の取りしまり・裁判などは町奉行が、村方は郡奉行がこれをとり扱っていた。

城下町の発展

沼津城の武家屋敷は、北の堀から西の堀にそって建てられ、上級武士の屋敷ほど城の近くにあって、下級武士になるにしたがって,西へ添地・西条と続いていた。堀に面した武家屋敷は片側だけの屋敷町であったので、片端町とよばれていた。

武士が居住することによって城下町は発展し、いわゆる消費都市としての性格がますます強くなった。このことは周辺の農漁村との間に商取引の役割を強くし、商業都市へと発展する動機もつくられたといえる。宿場町時代の中心は本町であったが、城下町時代になると上土町にも呉服や日用品を売る店がつくられていった。それによって、片端・添地と本町の間にもしだいに町家がつくられ、八幡町・大門町などの町が発展した。

このように沼津は、港町・宿場町としてつくられ、のちに城下町の性格が加えられた町である。

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