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津(みなと)の発達

2018年4月1日更新

許保(古宇)や三津から鰹が調として都に貢納される

現在の宮町・下河原付近は、主として狩野川の堆積作用によってできた土地で、下河原付近には古くから津(みなと)があった。このあたりは奈良時代から平安時代にかけて、かなり大きな集落ができていた。語り伝えられるところによると、延暦20年(801年)、坂上田村麻呂が東北遠征の時にこの集落に寄り、富士山に戦勝を祈り、帰り道に今の宮町に浅間神社を造ったといわれている。

このころの漁法は集団漁撈が多かった。西浦から原にかけての沿岸には漁民の集落が多くあり、漁業がさかんであった。このことは、東大寺文書や延喜式からうかがえる。また、平城京跡出土の木簡には木負(伊豆国田方郡棄妾郷)の地名がみられる。また、最近の調査では、静浦からもかつおが送られていることがわかってきた。かつお・あわびなどの貢物を送ったのであろう。当時高級官人しか使用しなかった緑釉陶器が、内浦(長井崎遺跡)から発見されていることなどにより、そのころ中央(都)との交流がかなりあったことがうかがえる。

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