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戦国のいくさと沼津

2018年4月1日更新

千本に「首塚」がある。天正8年(1580年)、駿河へ兵を進めた武田軍とこれをむかえうった北条軍とが、千本浜の沖で海戦をおこなった。そしてその後、千本付近で両者の地上戦がおこなわれ多数の死傷者が出る激しいものであった。この戦いは、武田軍の背後を徳川家康が攻めたため、勝頼が兵をひいて終わったが、この戦いによる多数の死者の首を葬ったといわれているものが明治年間に発見され、供養のため碑がたてられた。

このころ、武田方は、小田原の北条氏にそなえて、三枚橋と呼ばれるようになっていたかっての「車返」の地に三枚橋城を築き、勝頼の家臣高坂源五郎が守ることになった。一方、狩野川をはさんで南側には、わずかの距離のところに北条方の戸倉城(清水町徳倉)や大平新城があった。天正9年(1581年)には、戸倉城の城主笠原新六郎が、北条方を裏切って高坂源五郎に降伏したということもあったようで、両者の間には、常に激しいかけひきや戦いがおこなわれていたのであろう。

高坂源五郎を城代とした三枚橋城は、その後松平康親・中村一栄がつぎつぎと城主・城代となり、慶長6年(1601年)、大久保忠佐が城主となった。沼津は、城下町としての性格をもつようになった。

戦国時代末期、戸倉城を失った北条方が、その後方に築き、天正18年(1590年)の小田原攻めで廃城となった大平新城の城跡のある地。

大平新城

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