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軍需工場の進出

2018年4月1日更新

昭和恐慌や十五年戦争の進展は沼津の工業界にも大きな転換をもたらした。特に昭和13年(1938年)に国家総動員法が施行されると、軍需が民需に、重工業が軽工業に優先する戦時統制経済が一層明確化し、従来の繊維工業は急速に凋落していった。それに代わって進出してきたのが、工作機械・兵器・航空機等を生産する工場であり、太平洋戦争下では軍需工場に指定された重工業部門であった。

昭和13年3月に株式会社富士製作所沼津工場がつくられ、戦時下には中島飛行機や軍工廠への納入品を生産した。

昭和14年(1939年)4月に昌和洋行沼津工場が設立、軽オートバイの製造から航空機に転換、横須賀海軍工廠の指定工場とされた。

昭和16年(1941年)9月に国産電機株式会社沼津工場が開設、ガソリン発動機部品・マグネトから航空機用マグネト生産に転じ、昭和19年(1944年)には軍需工場の指定を受けた。

昭和17年(1942年)4月に芝浦工作機械株式会社沼津工場が開設、工作機械の生産を行ったが、昭和17年7月には官民合体で姉妹工場沼津兵器株式会社を設立し兵器製造を行った。沼津兵器は昭和20年(1945年)6月には名古屋陸軍造兵廠駿河製造所に移管された。

昭和18年(1943年)6月、駅北の沢田・熊堂の広大な地域に沼津海軍工廠が設けられた。これにより金岡村の沢田部落は300年来の家屋敷を捨て全戸移転をさせられることになった。

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