井出の大泉寺に阿野全成の墓がひっそりと建っている。阿野全成は、源義朝の七男として生まれ、頼朝には弟、義経には兄にあたる。幼名を今若丸という。成長するにおよび、源氏の血を引くだけあって勇気・力ともに優れていたようである。
源頼朝が兵を挙げた後、その下に加わり活躍したため、その功績により駿河国(静岡県)阿野庄を与えられた。阿野氏の本拠は、根方街道に沿った東原・鳥谷・柳沢・青野・根古屋・井出・平沼・石川付近であると考えられ、井出の大泉寺が、その館の跡であるといわれている。
鎌倉幕府が成立した後も頼朝のもとで働いていたが、建仁3年(1203年)、2代将軍頼家の家来によって謀反の容疑で捕らえられ、常陸国(茨城県)に流され、下野国(栃木県)で殺されてしまった。全成の首は、一夜のうちに井出の館に届き、庭の松の枝にかけられたと伝えられる。
阿野全成の長男は時元(隆元)といい、源実朝が暗殺された直後、阿野庄で兵を挙げた。北条氏に対する反抗である。しかしこの挙兵は失敗して時元は自殺し、阿野庄を失うこととなってしまった。時元の墓も大泉寺にある。
将軍の暗殺や、あいつぐ御家人同士の争いなど、鎌倉幕府の混乱を見た京都の朝廷は、勢力の回復をめざして承久3年(1221年)、後鳥羽上皇を中心として討幕の兵を挙げた。承久の乱である。鎌倉幕府は、北条政子や執権の北条義時を中心として、団結してこれを打ち破った。以後、朝廷の勢力が急速に衰えるとともに、新しい地頭や六波羅探題の設置などによって、幕府の勢力が西日本にも及び、その支配力はいっそう強まった。そんな中で、駿河も伊豆も鎌倉時代を通して北条得宗家(北条氏本家)が、守護職を握るようになり、しかも、単なる守護職だけでなく国務を執行する権利をもっていた。
※全成を殺害したのは当時北条氏と対立していた2代将軍頼家であるのが通説です。
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