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白隠禅師

2013年10月29日更新

白隠禅師(1685年~1768年)

駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠

東海道原宿に生まれ、各地を行脚した後に故郷に戻り、50年近くにわたって松蔭寺の住職を務めました。 また、50代以降には、請われて各地で講義を行うとともに、膨大な著作や書画を残しており、終生にわたり、様々な方法を駆使して法を説きました。人の往来が激しい東海道の沿道で、時代に即応した禅を広めた僧として知られています。松蔭寺には遷化の翌年に完成した白隠禅師坐像があり、虎視牛行(こしぎゅうこう)と言われる鋭さと厳しさを感じることができます。

白隠禅師坐像

白隠禅師を育んだもの

臨済宗中興の祖と讃えられている白隠禅師ですが、幼い頃に慣れ親しんだものが、その後の人生に多大な影響を与え、様々な形で表現されています。

生家

生家長澤家(沢瀉屋(おもだかや))は東海道に面し、旅籠兼運送業を営んでいました。父は豆州江梨村の杉山家の出身です。長澤家の第5子、3男として生まれ、幼名を岩次郎といいました。記憶力に優れ、強い意志を持った多感な少年でした。早朝から水垢離を行ったという井戸が現在も生家跡に残っています。

長澤家(沢瀉屋)跡に今も残る井戸

休心坊

幼い頃、自宅に出入りしていた休心坊(きゅうしんぼう)という念仏行者の影響を受けました。「食物は湯を加えて残さないようにする。立小便はしない。北方を清める。」という3つの教えを生涯守ったといいます。

地獄

11歳の頃、母に連れられて近くの昌原寺で説法を聞き、地獄に対する恐怖を抱いたことが出家の契機となりました。出家後も地獄について考え、晩年には地獄と極楽は表裏一体のものであるという考えに基づき、「南無地獄大菩薩(なむじごくだいぼさつ)」の名号や、地獄と極楽を同じ画面に描いた「地獄極楽変相図(じごくごくらくへんそうず)」を残しています。

天神

岩次郎は丑年、丑の月、丑の日、丑の刻に生まれ、さらにそれが25日であったことから、天神との縁を感じてきました。地獄に怯える11歳の頃、母から自宅に隣接する西念寺(さいねんじ)の天満天神が一切の苦を救うと教えられ、日々参拝しました。後年にも、「南無天満大自在天神(なむてんまだいじざいてんじん)」の文字絵や、お多福などの人物の衣に梅鉢紋を描いていることなどから、天神に対する特別な思いがあったようです。

西念寺

観音

13歳の頃、自宅から北東に4キロメートルほど離れた柳沢村に通い、観音菩薩を岩に刻み大岩の上で坐禅を組みました。この岩は「八畳石(はちじょういし)」と呼ばれています。さらに愛鷹山(あしたかやま)の山裾を上がると、「赤野(あけの)観音堂」があります。ここには、後年揮毫した白隠筆「赤野山(あけのさん)」の扁額が残されており、赤野観音のお告げについても法語に残しています。

赤野観音堂

法華経

母の生家である長澤家は代々日蓮宗の家であり、末子である岩次郎は信心深い母の影響で、幼少の頃から法華経に親しんでいたようです。出家を強く望むようになったのも法華経の功徳が大きいと聞き、感嘆したためです。 出家後には軽視する時期がありますが、その後内容を深く研究していたことがわかります。松蔭寺には、自筆でびっしりと註釈が加えられた法華経が伝わっています(静岡県指定文化財)。禅師の法華経に対する考え方は、日蓮宗の尼僧の質問に答えた『遠羅天釜(おらでがま)』巻之下に記されています。

白隠禅師筆の法華経

松蔭寺(しょういんじ)

15歳には、父の叔父大瑞宗育(だいずいそういく)禅師が復興した松蔭寺で、剃髪し「慧鶴(えかく)」となりました。各地で修行をした後、32歳で松蔭寺に戻りました。当時は廃寺寸前の状態だったようです。その後、修行僧が全国各地から集まり、弟子の育成に力を注ぎました。近在からも多くの居士が参禅しました。白隠禅師墓の周囲には、各地から参じた修行僧の墓石が多数残っており、当時の師弟関係が偲ばれます。禅師の著書『夜船閑話』(やせんかんな)では、長くこの寺で修行した僧について、「盡く是叢林の頭角、四方の精英なり」と記し、優秀な人材がここに集まっていたと述べています。

  • 松蔭寺からのぞく富士山
  • 松蔭寺 本堂
  • 全国各地から集まった多数の修行僧の墓石

白隠禅師が残したもの

白隠禅師は、厳しく指導しながら数多くの優れた弟子を育成するとともに、無量寺(むりょうじ・富士市)、龍澤寺(りゅうたくじ・三島市)を開きました。特徴的なものは、膨大な著書と書画です。著書には漢文体語録や仮名法語があり、生前に数多く刊行されました。書画には、達磨を描いたもののほか、儒教、民間信仰、歌謡など様々な要素を用いたものが見られます。

  • 白隠禅師が残した墨蹟・禅画
  • 白隠禅師が残した墨蹟・禅画
  • 白隠禅師が残した墨蹟・禅画

鮎壺の滝(あゆつぼのたき)(静岡県指定天然記念物)

鮎壺の滝の雄大さを漢詩にしたものが『荊叢毒蘂(けいそうどくずい)』に掲載されています。

百千斛雪同時撒 百千斛(こく)の雪 同時に撒(さっ)し
数萬箇雷特地鳴 数萬箇の雷 特地(どくち)に鳴る

(計り知れないほどの雪が同時に降るかのように、数万の雷が同時に鳴ったかのように轟く)

高さ約10メートル、幅約90メートルの鮎壺の滝は、黄瀬川の本流が落下する

鷲頭山(わしづさん)

鷲頭山を描いた画賛があります。

見上げてみれば鷲頭山
みおろせばしげ鹿濱(ししはま)のつり舟

(しげ=志下、鹿濱=獅子浜は沼津の地名)

穏やかな海面の駿河湾沿岸からのぞむ鷲頭山

市内で見学できるもの

松蔭寺(沼津市原128)

清梵寺(せいぼんじ)(沼津市大塚278)

  • 地獄極楽変相図(7月中旬の地蔵尊縁日に公開)
  • 「願王閣」扁額(本堂前)

赤野観音堂(沼津市柳沢字赤野544)

  • 「赤野山」扁額(外陣)

禅長寺(ぜんちょうじ)(沼津市西浦河内396-2)

  • 「九華山」扁額(本堂前)

横松公民館前(沼津市大平635)

  • 「常念観世音菩薩」石碑

重寺(しげでら)観音堂(沼津市内浦重寺172)

  • 「白華閣」扁額(観音堂前)

インターネットサイト

白隠学の構築を目指し、仮名法語の解説、自筆版本のデータベース化、書画の解説などが行われています。


白隠慧鶴(1685年~1768年)略年譜
年号 出来事
貞享2年(1685年) 1 原宿の長澤家に第五子(三男)として生まれる。幼名は岩次郎。
元録8年(1695年) 11 昌原寺で行われた地獄の説法を聞き恐れを抱く。
元録9年(1696年) 12 人形浄瑠璃芝居を見て『法華経』の威力に感嘆し、出家を志す。
元録12年(1699年) 15 松蔭寺で出家し、まもなく大聖寺で修行する。
元録13年(1700年) 16 感慧坊に『法華経』を借りて読むが、比喩が多いことに失望する。
元録16年(1701年) 19 清水の禅叢寺を訪れ、参禅修行に迷う。
宝永元年(1704年) 20 美濃の瑞雲寺を訪れ、修行への決意を取り戻す。5月母死去
宝永5年(1708年) 24 信州飯山の正受庵を訪れ、厳しい指導を受けた後に認められる。
正徳5年(1715年) 31 美濃の岩瀧山で坐禅に打ち込む。
享保元年(1716年) 32 岩瀧山中で苦行を続けるが、父の病を知り、松蔭寺に帰る。
享保2年(1717年) 33 松蔭寺に入寺する。10月父死去
享保3年(1718年) 34 白隠と号する。
享保11年(1726年) 42 法華経を読んで大悟する。
元文2年(1737年) 53 伊豆林際寺の招請に応じて講義する。(以後各地で講義を始める)
寛保3年(1743年) 59 『息耕録開筵普説』が刊行される。
延享3年(1746年) 62 『寒山詩闡提記聞』が刊行される。
寛延2年(1749年) 65 『槐安国語』が刊行される。
宝暦2年(1752年) 68 比奈の無量寺が完成し、開山となる。
宝暦7年(1757年) 73 『夜船閑話』が刊行される。
宝暦8年(1758年) 74 『荊叢毒蘂』が刊行される。
宝暦10年(1760年) 76 龍澤寺で開山の儀を行う。
明和3年(1766年) 82 『壁生草』を清書する。
明和5年(1768年) 84 12月11日遷化。松蔭寺、龍澤寺、無量寺に分骨される。

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