岡野喜太郎さん(昭和35年5月称号贈呈)
岡野喜太郎さん
(おかのきたろう)
元治元年(1864年)4月、駿東郡青野村(現、沼津市青野)に誕生。明治12年(1879年)県立沼津中学校(集成舎から独立)に入学。明治17年(1884年)9月の暴風による大飢饉を救うため明治18年(1885年)秋韮山師範学校を退学し、郷里の立て直しに着手し、明治20年(1887年)共同社貯蓄組合を創立して、業績をあげる。明治28年(1895年)根方銀行を創立し頭取となり、明治45年(1912年)駿河銀行と改称する。
常に堅実経営に徹し、業績をあげていった。現在富士市は、製紙のまちとして有名だが、これも昭和13年(1938年)、岡野氏が大昭和製紙取締役になったことを抜きにしては語れない。その他、様々な会社を創立し、業績をあげている。
教育にも熱心で、昭和17年(1942年)には出生地の愛鷹小学校に田畑を寄付する。昭和25年(1950年)には愛鷹村に教育基金として金20万円を寄付し、昭和37年(1962年)駿河銀行会長として沼津市に金4,000万円を寄贈、駿河図書館を建設する等、教育に寄与すること多大であった。さらに昭和38年(1963年)、財団法人駿河奨学会を設立し、経済上の理由で学業に専念できないものに、学資の一部を給与している。
以上のように、産業界、教育界への貢献に対して、沼津市は昭和35年(1960年)、市最初の「名誉市民」の称号を、また全国地方銀行協会は「長老」の称号を捧げた。昭和39年(1964年)、勲三等瑞宝章を授与され、昭和40年(1965年)、死去に際し従四位に叙せられ、天皇陛下より祭粢料を賜った。
芹沢光治良さん(昭和55年4月称号贈呈)
芹沢光治良さん
(せりざわこうじろう)
明治29年(1896年)5月、駿東郡楊原村(現、沼津市)我入道に生まれる。明治42年(1909年)3月、楊原尋常高等小学校(現、沼津市立第三小学校)を卒業、大正4年(1915年)県立沼津中学校(現、沼津東高等学校)を卒業後、沼津尋常高等小学校(現、沼津市立第一小学校)の代用教員となる。後、原町(現、沼津市原)の植松家(帯笑園)に翌年の第一高等学校受験まで家庭教師として住み込む。大正8年(1919年)3月第一高等学校(現、東京大学教養学部)仏法科を卒業し、4月東京帝国大学(現、東京大学)経済学部に入学、大正11年(1922年)大学卒業後、農商務省に勤務する。大正14年(1925年)5月に官吏を辞任し、翌月夫妻で渡仏、パリ大学に入学する。
昭和3年(1928年)帰国し、昭和5年(1930年)、留学中の体験をもとに書いた改造社懸賞応募作品「ブルジョア」が一等当選し、作家デビューを果たす。以後、死去する当日まで数多くの作品を著し、国内外で活躍した。また、作家活動の傍ら、日本文芸家協会理事、国語審議会委員、日本ペンクラブ副会長、同会長、ユネスコ国内委員、日本芸術院会員などを歴任する。
主な受賞として、昭和31年(1956年)に仏訳「巴里に死す」がベルギーの読者クラブ賞次席となり、昭和34年(1959年)、同作などに対しフランス詩人連盟よりフランス友好国際大賞を、昭和49年(1974年)、日仏文化交流の功労者としてフランス政府から芸術文化勲章コマンドールを贈られる。
国内では、昭和40年(1965年)、故郷沼津を舞台として物語が始まる「人間の運命」(第一部)により芸術選奨文部大臣賞を、昭和43年(1968年)、多年にわたりユネスコ運動につくした功績により勲三等瑞宝章を授与され、昭和44年(1969年)、大河小説「人間の運命」に対して日本芸術院賞を受ける。
沼津市に関することでは、昭和38年(1963年)及び昭和57年(1982年)、我入道海岸に文学碑が建立され、昭和45年(1970年)、我入道公園内に芹沢文学館(現、沼津市芹沢光治良記念館)が建設される(財団法人芹沢・井上文学館設立)。そして昭和54年(1979年)、名誉市民に推される。また、翌年、我入道東町の生家があったとされる場所に生誕碑が、昭和58年(1983年)、我入道連合自治会館壁面に詩碑が建立された。平成5年(1993年)3月23日永眠。中瀬町の市営墓地に眠る。
井上靖さん(昭和58年7月称号贈呈)
井上靖さん
(いのうえやすし)
明治40年(1907年)5月、北海道旭川に生まれる。幼時を両親の郷里、天城湯ヶ島で過ごす。大正15年(1926年)3月、県立沼津中学校(現、沼津東高等学校)を卒業後、金沢の第四高等学校(現、金沢大学)卒業、九州帝国大学(現、九州大学)法文学部英文学科を中退し、昭和11年(1936年)3月、京都帝国大学(現、京都大学)文学部哲学科を卒業、昭和11年8月毎日新聞大阪本社へ入社。昭和12年(1937年)9月には日中戦争で応召したが、翌年脚気のため除隊した。
昭和24年(1949年)、「闘牛」で文壇に登場し、昭和39年(1964年)、日本芸術院会員となり、昭和51年(1976年)、文化勲章を受章。昭和56年(1981年)には日本ペンクラブ会長となる。主な受賞作として、昭和25年(1950年)、「闘牛」で芥川賞、昭和33年(1958年)、「天平の甍」で芸術選奨文部大臣賞、昭和34年(1959年)、「氷壁」その他により芸術院賞、昭和35年(1960年)、「敦煌」「楼蘭」で毎日芸術大賞、昭和36年(1961年)、「淀どの日記」で野間文芸賞、昭和44年(1969年)、「おろしや国酔夢譚」で新潮社日本文学大賞、昭和55年(1980年)、「井上靖とNHKシルクロード取材班」で菊地寛賞などがある。
沼津市とのかかわりあいについては、大正11年(1922年)、沼津中学校2年に転校し、4年生の時から下河原の妙覚寺など沼津に寄宿して通学。昭和38年(1963年)、千本浜公園内に井上靖文学碑が建てられる。昭和39年(1964年)から翌年まで沼津中学時代の自伝的小説「夏草冬濤」を「産経新聞」に連載し、昭和41年(1966年)に出版した。昭和58年(1983年)3月に名誉市民に推される。業績を記念し沼津東高校と沼津市民文化センターに、芹沢光治良・井上靖両氏の文学碑が建てられた。このほか、市内にはJR沼津駅南口ロータリー、御成橋袂(静岡新聞社前)や妙覚寺などにも井上氏の文学碑が建立された。平成3年(1991年)1月29日永眠。
長倉三郎さん(平成3年2月称号贈呈)
長倉三郎さん
(ながくらさぶろう)
大正9年(1920年)、駿東郡鷹根村(現、沼津市)柳沢で生まれる。昭和13年(1938年)3月、県立沼津中学校(現、沼津東高校)を卒業。昭和16年(1941年)、旧制静岡高等学校(現、静岡大学)、昭和18年(1943年)東京帝国大学(現、東京大学)理学部化学科を卒業し、昭和34年(1959年)には東京大学教授、昭和56年(1981年)には東京大学名誉教授となる。
その間、昭和41年(1966年)に、「分子の電子構造及び分子間相互作用に関する研究」で日本化学会賞を、昭和46年(1971年)、「分子化合物の電子論的研究」で朝日賞を、昭和53年(1978年)、「短寿命励起分子及び反応中間体の電子構造と反応性の研究」で日本学士院賞をそれぞれ受賞する。また、昭和60年(1985年)、文化功労者に選ばれ、平成2年(1990年)には文化勲章を受章する。
その他、国際量子分子科学アカデミー会員、岡崎国立共同研究機構分子科学研究所長、IUPAC(国際純正・応用化学連合)会長、ドイツ民主共和国科学アカデミー会員、社団法人日本化学会会長、日本学士院会員、岡崎国立共同研究機構長、文部省学術審議会委員、文部省大学審議会委員、総合研究大学院大学長、中国(台北)化学会名誉会員、インド科学アカデミー会員、英国王立科学研究所名誉会員、スウェーデン王立科学アカデミー会員などを歴任する。
沼津市にかかわることでは、平成元年、母校である愛鷹小学校の校庭に、ニュートンが「万有引力の法則」を発見するきっかけとなった「りんごの木」の子孫を、東京大学の植物園から長倉先生の仲介で接ぎ木をする。平成2年(1990年)12月、名誉市民に推される。
令和2年(2020年)4月16日永眠。
- ※平成14年、広報ぬまづの新春対談において、斎藤衛沼津市長と、沼津の教育、また沼津の発展においてこれから求められるものなどについて大いに語っていただきました。
大岡信さん(平成16年1月称号贈呈)
大岡信さん
(おおおかまこと)
昭和6年(1931年)2月、田方郡三島町(現、三島市)で生まれる。昭和22年(1974年)3月、静岡県立沼津中学校(現、沼津東高等学校)4年を修了。昭和25年(1950年)3月、第一高等学校、昭和28年(1953年)3月、東京大学文学部国文科を卒業し、同年に読売新聞社に入社し、外報部に勤務する。同社在籍中の昭和31年(1956年)7月、第一詩集「記憶と現在」を発刊。同社退社後、明治大学助教授、明治大学教授、東京芸術大学教授等になる。
その間、昭和44年(1969年)6月、「蕩児の家系 日本現代詩の歩み」で、第7回歴呈賞、昭和47年(1972年)3月、「紀貫之」で、第23回読売文学賞、昭和54年(1979年)10月、「春 少女に」で、第7回無限賞、昭和55年(1980年)11月、前年から朝日新聞に連載を開始した「折々のうた」で第28回菊地寛賞、平成元年(1989年)9月、「故郷の水へのメッセージ」で、第7回現代詩花椿賞、平成2年(1990年)3月、「詩人・菅原道真」で、第40回芸術選奨文部大臣賞、平成5年(1993年)3月、「地上楽園の午後」で、第8回詩歌文学館賞(現代詩部門)を受賞する。
そのほか、平成元年(1989年)7月、フランス芸術文化勲章シュヴァリエ、平成5年(1993年)3月、フランス芸術文化勲章オフィシエ、第9回東京都文化賞、平成7年(1995年)3月、第51回恩賜賞・日本芸術院賞、平成8年(1996年)8月、マケドニアのストルーガ詩祭で金冠賞、平成9年(1997年)1月、朝日賞、平成14年(2002年)8月、国際交流基金賞等、数多くの賞を受賞する。
また、昭和49年(1974年)から財団法人日本文芸家協会理事、昭和54年(1979年)から昭和56年(1981年)まで日本現代詩人会会長、平成元年(1989年)から平成5年(1993年)まで日本ペンクラブ第11代会長等を歴任する。
平成9年(1997年)11月には、文化功労者、平成15年(2003年)11月には、文化勲章を受章する。
沼津市にかかわることでは、過去に旧制沼津中学校出身者である芹沢光治良氏、井上靖氏が務めた、日本ペンクラブの会長となり、平成4年(1992年)3月、沼津東高等学校には、文学碑が建立された。同校には、芹沢氏、井上氏、長倉三郎氏の記念碑も建てられている。
このほか、平成4年(1992年)4月から平成6年(1994年)3月までは、燦々ぬまづ大使、平成7年(1995年)6月から平成13年(2001年)6月までは、山口源大賞選考委員、選考委員長(平成9年(1997年)及び平成13年(2001年))を務めるほか、平成8年(1996年)11月の芹沢光治良生誕百年記念講演会ほか多くの講演会の講師として沼津市を訪れ、平成9年(1997年)7月1日には、沼津市特別表彰を受賞し、平成15年(2003年)11月に名誉市民に推される。平成29年(2017年)4月5日永眠。
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