沼津駅東方約1キロメートルの東海道本線の線路脇に所在する山神社付近に存在する寺院跡である。神社の境内に塔の礎石が残り、この塔址については昭和45年2月に市の指定史跡となり、昭和52年には史跡公園として整備されている。
出土した瓦等から、当地の有力者が白鳳期(7世紀後半)に建立した寺院跡(氏寺)と推測され、平安時代初期(9世紀)にかけて存続したと考えられている。文献資料はなく、寺院名も不明なため、所在地の地名から日吉廃寺跡と呼ばれている。
最初の調査としては、大正6年(1917年)の丹那トンネル開通に伴う東海道熱海線敷設の際に、柴田常恵・三島通良の両氏によって塔址の調査が実施されている。この調査によってこの寺院跡が奈良時代のものであるとの鑑定がなされた。
その際に塔礎石17個のうち、線路にかかる北側の10個が南方の山神社境内地に移された。
戦後、宅地化の進行に伴い、昭和34年~昭和38年(1959年~1963年)にかけて日本大学考古学研究室を中心に5次に及ぶ調査が実施された。
調査を担当した軽部慈恩氏は、日吉廃寺が白鳳時代(7世紀後半)から平安時代初期にかけて存続し、最盛期には東西1町(約108メートル)、南北2町の境内に講堂、金堂、塔、門、回廊塔が並ぶ大伽藍であったと推定した。
はじめは法起寺に近い伽藍配置が推定されていたが、地表にある塔の礎石の下から、更に古い型式の瓦が発見され、その他柱穴・基壇等も発見されたことから、日吉廃寺は創建以来何回かの火災に遭い、その後部分的に再建が行われ、伽藍の様式も時の流れとともに推移を見せ、平安時代初期に衰滅期を迎えたとし、当初建てられた寺は飛鳥寺式伽藍配置だったが、奈良時代に入り金堂や塔が焼失し、まもなく法起寺式新金堂が再建されたが、これも焼失し奈良時代末期から平安時代初期に、規模を縮小した法起式伽藍配置に計画変更されたのではないかと推論した。
近年、沼津市教育委員会が試掘調査及び本発掘調査を実施し、平成25年度以降に実施した本発掘調査から、当該地は後世において水田等の耕作によって土地が大きく改変されていることが判明した。このことから、日吉廃寺についても、塔址を除いた寺院建物に関連する基壇等の遺構はほぼ消滅し、地山を掘り込んだ柱穴のみが残存するだけの状況になっているものと推測される。
当地において、瓦の出土点数が極めて多いことや平成25年度の発掘調査で出土した仏像の頭髪である螺髪、また、塔址における礎石等の存在から、かつて寺院のあったことは間違いないと思われ、古代初頭においてスルガ国の中心地が沼津市域にあった事を示す重要な遺跡であるという位置づけは変わりないものの、その時期や規模、伽藍配置などといったこれまで考えられてきた有り様については不明と言わざるを得ず、大幅な再検討が必要となる。
27年度発掘調査空中撮影写真
(柱穴列)軒丸瓦出土状況
螺髪
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