文政元年(1818年)尾州藩の医師幡頭信珉の子として江戸に生まれる。天保5年(1834年)17歳で杉田立郷の門下生となり、蘭学医術を修める。天保9年、杉田家の養子となり玄端と称し、弘化2年(1845年)28歳の時分家して四谷塩町に開業した。これより先、杉田の宗家玄白の跡目が絶えたので弘化3年宗家を継ぎ幕府に仕えるが、明治維新後新政府からの出仕の勧めを断り、徳川家の新封地駿河に移り、沼津兵学校の校医頭となる。
後に沼津陸軍医学所を興し、その頭取にあげられたが、これは兵学校廃止後も沼津病院、駿東病院の前身である私病院として継続する。明治8年東京神田に出張所を設け、尊生舎と称し一般の診療にあたったが、この頃から沼津の方は医師相磯格堂に託し、自身は東京に移った。明治22年(1889年)麻布永坂町の自邸において72歳で逝去。遺志により、ここに墓碑が建立された。
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