沼津は、バー文化もさることながら、酒造りの街でもある。
富士山がもたらす水の恵みは、日本酒やビールへと姿を変え、私たちを日夜、至福のひとときに誘う。
そんな酒造りのまちに、2018年3月、新たなブルワリーが誕生した。
沼津の名を冠する「沼津クラフト」だ。
オーナーでありブリューマスターである片岡哲也さんは、秋田県秋田市の出身。
彼のクラフトビールとの出会いは、学生時代にさかのぼる。
イギリスへの留学中、現地のパブ文化に衝撃を受け、さらにヨーロッパをまわり、各地のビール文化を肌身で味わった。
日本のビール文化との違いは歴然だった。純粋に、「酒造りはかっこいい」、そう感じた。
大学卒業後、すぐにでも造り手になりたい、と思ったが、当時の日本にはブルワリーも少なく、造り手の仕事もなかった。
1年後、運良く募集が出たベアードビールに就職したのがきっかけで、沼津に移り住むことに。
そして8年間、ビール造りに携わる。
基礎から全行程を学び、やがてヘッドブルワーに。
「自分らしいビールを造りたい」という想いは常にあり、ベアードビールの修善寺移転をきっかけに、片岡さんの志を理解し共感する3人のスタッフを得て、独立を果たす。
現在のクラフトビールブームの先駆けでもあるベアードビールでの経験は、彼に大きな影響を与えている。
「信念をもって、流されずに、自分のビールを作り続けること」と片岡さんは語る。
彼のビール造りの動機は“自分が飲みたいビールをつくる”という極めてシンプルなもの。
でもそれは、決して、独りよがりなビールという意味ではない。
彼は、誰よりも飲み手のことを考え、本当の飲みやすさとは何なのか、ビールをおいしく造るにはどうしたらいいのか、を日々考えているからだ。
ビールを味わってみると、よくわかる。
どのビールも、個性を尖らせるのではなく、絶妙なバランス感覚の上に成り立っている。
きっと、彼の“飲みたい”は飲み手の“飲みたい”とイコールなのだろう。
しかし、独立を考えるときに、秋田へ帰る、という選択肢もあったはず。
そんな疑問を投げかけてみると、片岡さんは何の迷いもなく「沼津しか考えられなかったです」と答えた。
海があり、川があり、自然が豊かで交通の便もいい。
そんな沼津が大好きで、帰るという選択肢は当初からなく「ベアードに入った瞬間から、沼津に永住する、と決めていました。」
ビールにも「千本ペールエール」や「バイカモIPA」「ラヴァポーター」など地域にちなんだネーミングが多くみられ、彼の沼津愛がひしひしと感じられる。
さらには、「少しでも地域貢献がしたい」という片岡さん。
ビールでイベントを起こし、県外からのお客様を呼び、沼津のよさを知ってもらうきっかけになれば、という。
そのためにも、静岡県東部にあるブルワリーが協力し合い、魅力を伝えていくことが大切だと語ってくれた。
工場見学をさせてもらう。
倉庫でもない、かといって普通のビルにもない高い天井、さらには外壁の「BUNKADO PHOTO CENTER CO.,LTD.」の文字。
ここは「文化堂フォトセンター」という、商用写真や商用ビデオを撮影・編集するスタジオだった。
現在の清水町社屋に移転するまで、この建物の大家でもある、フォトグラファーの山田さんが、ここで多くの撮影を行ってきたという。
2階の、ナレーション録りに使っていた防音室は、ホップの保管庫に。
照明用の天井レールも当時のまま。
意外かもしれないが、スタジオだった建物は、醸造所にとてもフィットした。
タンクをいれるにも天井高は充分、当時は照明などに多くの電力が必要だったため契約電力も高圧、真俯瞰の写真を撮るために作られた仕掛けもホップの粉砕にピッタリ、と、まるであつらえたように都合がよく、最小限のリフォームで済んだ。
こんな好物件、どうやって巡りあえたのだろうか?
「僕、3階に住んでいたんです」
実は片岡さん、7年前からこのビルの住人だったのだ。どうりでベアードビールは目と鼻の先。
ただ、独立を決めた時には、1階、2階とも別の借り主がいて、物件探しには苦労したそう。
なかなか物件が決まらずにいたところに、大家の山田さんから「物件、空いたよ」との知らせが舞い込む。
山田さんも、片岡さんのことをずっと気にかけていて、応援したい、と思ったからこそすぐに話を持ちかけたという。
物件が決まれば片岡さんを阻む障壁はなく、トントン拍子にコトは進み、現在に至る。
「こんなにうまい具合に建物を活かしてくれることはとても嬉しいし、しかもおいしいビールが飲めるなんてもっとうれしい。彼らがこれだけのことをやって、がんばっているのをみているから、沼津が盛り上がるきっかけになれば、と地域の皆さんに紹介したりして、応援しているんですよ」
と、嬉しそうに語る山田さん。
「ここのビールは全部おいしい! でもね、あえて言うならクリームラガーがいちばん好きかな。家内はESBが好きですね」
造り手と飲み手と立場は違え、ふたりがビールを語るときの表情はまるで、少年が夢を語るときのように輝きに満ちている。
もしかしたらそんな風にビールを楽しめるふたりだからこそ、この縁がつながったのかもしれない。
沼津を盛り上げたい。
沼津を盛り上げようする人を支えたい。
ひとつの建物をめぐり、沼津への想いをのせたバトンが繋がっていく。
沼津クラフトのビールにもその想いは込められ、飲む人を魅了しながらさらに広がりをみせてくれることだろう。