日本の敗色は明らかになり、昭和19年(1944年)7月サイパン島が陥落したことによって、B29による本土直接爆撃が十分に可能となった。昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲をはじめ、大阪・名古屋・神戸・北九州・横浜などの大都市が次々に焦土と化した。そして攻撃目標は地方の中小都市へと移り、軍需工場を少なからず抱えていた沼津市もその対象となった。
昭和20年7月17日未明、マリアナ基地を出撃した米軍機130機は沼津を襲い、9,077発、1,039トンに及ぶ焼夷弾を投下した。これにより沼津市は、9,523戸を焼失、274人の死者を出すという被害を受けた。米軍記録によれば、この空襲により沼津市は都市面積の89.5%を破壊されたとされる。7月17日以前にも小規模な空襲を数回受けていたが、合計すると死者322人、重軽傷者634人、全半焼11,756戸、全半壊127戸というのが沼津市が受けた戦災被害であった。
戦局の悪化に伴い、「本土決戦」「一億玉砕」が叫ばれるようになり、昭和19年4月国民を総動員した国民義勇隊が編成された。軍でも米軍の本土上陸に備え、駿河湾沿岸の沼津近辺にも各種の部隊が配備された。独立混成第百十七旅団(駿河支隊)が香貫山や徳倉山・鷲頭山に陣地を築いたほか、回天・震洋といった特殊潜航艇の特攻基地が内浦湾につくられた。敗戦を目前に控えた昭和20年7月頃のことである。
空襲を受けた市街地(昭和20年10月)
昭和20年7月17日未明の空襲で焼け野原になった市街地の惨状。焼け残ったのは沼津郵便局(右)と沼津商工会議所(左)。岳南デパートから写す。
B29による爆撃あと(昭和20年1月)
昭和20年になると、沼津市内の主な場所は再三空襲を受ける。この写真は大手町角「とらや薬局」の爆撃あと。
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