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造船資料室

2008年7月7日更新

幕末戸田の「開国」と「海廊伝説」

プチャーチン提督

プチャーチン提督

嘉永7(1854)年、ロシア皇帝の命を受けたプチャーチン提督は、日本と正式な国交を結ぶため、ディアナ号に乗って下田にやってきました。
11月4日の朝、安政東海大地震が起こり、それに伴う津波に襲われ、ディアナ号は舵や船底に大きな被害を受けました。
自力で航行できなくなったディアナ号は、伊豆西海岸の戸田港で修理することになりました。戸田港は御浜岬によって波風から守られ、砂浜は遠浅で、巨大な船の底部を横倒しにして修理するのに適していました。クリミア戦争で英仏と戦 っていたロシア軍にとって、御浜岬は敵国に見つかりにくい環境を造り出していたのです。
ところが、ディアナ号は、戸田へ回航する途中で強い季節風にあおられ、田子の浦沖まで流されてしまいました。周辺の漁民も協力し、なんとか曳航しようとしましたが、とうとう沈没してしまいました。プチャーチンと約500名の乗組員たちは、2日間をかけて陸路戸田へ到着しました。

ディアナ号模型

ディアナ号模型

そしてロシア人が帰国するための船の建造が始まりました。ディアナ号の船内から持ち出されたスクーナー型帆船の図面を元に、設計図の作成に取り掛かりました。しかし、当時幕府にロシア語のできる通訳はおらず、ロシア語からオランダ語、そして日本語に訳して会話をしました。長さの単位も、船の構造もまったく異なるため、作図には大変苦労しました。
さまざまな障がいを乗り越え、約100日後、日本初の本格的洋式帆船が完成しました。プチャーチンは戸田の人々への感謝をこめて、この船に「ヘダ号」と名づけ、安政2(1855)年3月22日、ロシアに向けて旅立ちました。途中英軍艦に追跡させるなどの危険にさらされながら、当時の首都ペテルブルグに到着したのは、7ヶ月後の11月でした。

ヘダ号模型

ヘダ号模型

その後、幕府の命により、戸田で6隻の同型の船が建造されました。この船は、当時戸田村が属していた君沢郡から「君沢型」と呼ばれました。続いて江戸石川島で4隻の君沢型船が建造され、ここにも戸田から船大工が派遣されています。さらに長州藩(山口県)や田原藩(愛知県)、江戸や大阪へ招かれた船大工たちが、西洋式造船技術を広めていったのです。

オリガ・プチャーチナ

オリガ・プチャーチナ

明治20(1887)年、プチャーチンの娘オリガ・プチャーチナが、父の受けた厚情に謝意を表するため戸田を訪れました。オリガは、関係者に記念品を贈り、造船所跡地や宿舎となっていた宝泉寺などを見学しました。後にオリガの永眠に際し、遺言により100ルーブルが戸田村へ寄贈されました。
昭和44(1969)年、戸田村が造船郷土資料博物館を建設するにあたり、当時のソビエト連邦政府から、500万円の寄付を受けました。さらに翌45(1970)年には、大阪万博が開催され、ソ連館に展示されていたディアナ号の模型とステンドグラスが、閉会後戸田村に贈られ、現在も当博物館に展示しています。

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