沼津御用邸の設置
沼津御用邸は明治26(1893)年、大正天皇(当時は皇太子)のご静養のために造営されました。
御用邸は皇室が主として保養のために用いる別邸で、いわばリゾート施設です。当時、このあたり一帯は楊原村と呼ばれる小さな漁村でしたが、気候が温暖なうえ、前面には駿河湾、背後には富士山という風光明美な地であることから別荘地として注目されはじめて、すでに大山巌(陸軍大臣)、川村純義(海軍大臣)、大木喬任(文部大臣)、西郷従道(陸、海軍大臣)の別荘が建てられていました。彼らはいずれも明治政府の高官です。川村純義伯爵が後に皇孫殿下(昭和天皇、秩父宮)の養育係になっていることを考えると、この4人の存在が御用邸設置に大きく影響したものと思われます。加えて明治22(1889)年に東海道線が開通して、東京からの交通の便がよくなったことも理由の一つにあげられます。
本邸の造営
本邸は明治25年末から翌26年にかけて最初の新築工事が行われ、同年7月に竣工しました。御座所(居間)、御寝室、御食堂、湯殿、臣下詰所などを含む1,200平方メートル(370坪余り)の木造平屋建ての和風建築でした。
その後、明治28年から29年にかけて最初の増築工事が行われ、御座所はおよそ100坪増築され、その結果従来の御座所は旧御殿、新しい部分が新御殿と新旧二つの御殿になりました。その他侍医の詰所や女官室など臣下の詰所も整い、建築面積は当初の2倍になりました。また御玉突所も新築、牛舎や厩舎などの附属建物もしだいに整備され、馬場も新設されました。
本邸御車寄
さらに明治33年1月には260坪ほどの増築工事が行われ、同年11月には新御殿の東側に230平方メートル(約70坪)の洋館が新築されました。この洋館は当時の御用邸としてははじめての洋風建築物です。木造平屋建てで下見板張り、屋根はスレート葺で、全体はルネサンス様式を基調にまとめられていました。設計は明治期の最も代表的な宮廷建築家として知られ、宮内省所属の片山東熊と河面徳三郎の二人が担当したとされます。小規模ながら明治後期における宮廷建築の一事例として、建築史に残るような建物でした。
内部には三つの部屋があり、北側の部屋は表御座所で謁見所、御学問所として、また南側の部屋にはベランダが付設されて御陪食食堂として用いられ、御食堂の隣の小部屋は侍従候所に当てられていました。表御座所と御陪食食堂には暖炉が設置され、家具やインテリアも高級感があるものとなっていました。
本邸旧御殿
(皇后宮御座所、御寝室)
この段階で建築面積は附属建物を含めて約5,000平方メートルとなり、ほぼ完成された形になりました。その後は大きな増築はなく、昭和20年7月の沼津大空襲で焼失するまで、絨毯の敷き替え、畳表の張り替え、屋根瓦の葺き替えなどの修繕がひんぱんに行われていることが史料によってわかります。ご利用が多かった証拠といえましょう。
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東南側から見た本邸洋館の外観
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本邸洋館御陪食食堂の内部
本邸洋館表御座所の内部
本邸の跡地には現在沼津市歴史民俗資料館が建っていますが、本邸はここを中心として周辺に広がっており、その規模は資料館の約10倍であったことを考えると、本邸の広大さが想像できます。
東附属邸の造営
東附属邸は明治36年4月、本邸の東側に赤坂離宮東宮大夫官舎を移築し、皇孫殿下の御学問所として造営されました。木造平屋建て、552平方メートル(約167坪)です。その際附属建物の増築が少し行われた以外は当時の姿のまま今日に至っています。
内部には15余りの部屋があり、時期によって室名に変更がみられますが、間取りそのものは変わっていません。東附属邸は御学問所としての性格上、常住のための建物としてではなく、臨時的な使用が中心だったと思われますが、本邸が焼失した戦後の時期には皇族の方々のご滞在にも用いられたことがあります。
東附属邸実験室の内部
西附属邸の造営
明治38年8月、宮内省は本邸西隣にあった川村純義伯爵の別荘を買い上げて皇孫殿下のための御用邸としました。
川村別邸は敷地約10,000平方メートル(3,030坪)に木造平屋建て880平方メートル(約266坪)の建物で、明治23年頃に建築されたものと思われます。この建物は現在の西附属邸の東側部分、すなわち謁見所や御食堂などのある部分に当たります。
西附属邸拝謁ノ間の内部
西附属邸御玉突所の内部
翌39年6月に皇居内の附属建物424平方メートル(約128坪)を移築して継ぎ足しました。これが現在御座所や女官室などがある部分です。さらに明治41年7月に御車寄、御料浴室などが増築され、大正11年には御玉突所が増築されて渡り廊下で結ばれ、全体面積1,270平方メートル(約384坪)の附属邸が完成しました。
西附属邸は皇孫殿下の御用邸ですが、昭和天皇は天皇になられてからも日常のおくつろぎやお休みになられる時はここをよく利用され、本邸は人とお会いになるなど公務の場合に使われていました。そして昭和20年に本邸が焼失した後は西附属邸が本邸の役目を果たすようになり、昭和44年12月6日に沼津御用邸が廃止になるまで、昭和天皇をはじめ皇室の方々に利用されてきました。
御用邸での日々
沼津御用邸への最初の行啓は明治26年7月、御用邸が完成した直後に行われた皇太子殿下(大正天皇)によるもので、この時はおよそ一か月滞在されました。その後もご利用の機会が多く、延べ日数にすると1,000日以上を沼津御用邸で過ごされており、この地で狩猟などを楽しまれることもありました。ここでの東宮一家の暮らしぶりはエルヴィン・ベルツの「ベルツの日記」からうかがうことが出来ます。ベルツは明治9年に日本政府の招きで来日し、日本の近代医学の基礎作りに貢献したドイツ人医師です。明治35年には東宮侍医となり、沼津御用邸にもしばしば訪れていました。日記には皇孫殿下が庭園や海浜で自由に遊ぶ様子や父親としての東宮の満悦ぶりが記されています。当時の皇室では親子別々に暮らしていましたので、このようにご一家が親子一緒の生活を過ごされているのを見て「西洋の意味でいう本当の幸福な家庭生活」が実現したと喜んでいます。
また昭憲皇太后(明治天皇后)は皇后当時から度々ご滞在になっていますが、貞明皇后(大正天皇后)も昭和になってからしばしばご利用になり、昭和8年から延べ900日以上滞在されています。
昭和天皇はご誕生の翌年からすでに川村邸で夏冬の多くを過ごされていましたが、その後、皇太子時代も長期滞在が多く、歴代陛下の中ではもっともご利用日数が多くなっています。ご幼少の頃から沼津の海や自然に親しまれる機会が多く、また周辺の同年輩の子供達と相撲をしたり、散歩の途中で地元の小学生に気軽に話しかけられるなど、地域住民との交流を楽しまれました。
上皇陛下は、戦前の昭和16年夏の49日を始め、昭和17年37日、昭和18年には夏を含む三たび延77日、昭和19年春から夏にかけ55日と毎年ご滞在になり、この4年間で約220日ご滞在になられました。
戦後は終戦間もない昭和21年に再びご滞在になり、昭和21年夏44日、昭和22年夏31日、昭和23年46日、昭和24年34日と毎年1ヵ月以上、昭和25年、昭和26年も各10日程度ご滞在となりました。また昭和37年8月には約1週間妃殿下(上皇后陛下)、浩宮徳仁親王(今上天皇陛下)ご同伴でご滞在されました。戦前・戦後共に毎年のようにこの沼津御用邸にご滞在され、その延日数は約400日にも及んでおります。
常陸宮正仁親王殿下(義宮殿下)も昭和17年の夏を始めとし、延べ400日以上、9回ご滞在され、その多くが上皇陛下と同時期の滞在でした。
この間狩野川の煙火大会に行かれるなど市内各地へのお出かけや隣接する学習院游泳場へのご滞在の機会も数多くありました。
昭和45年3月には、昭和天皇と香淳皇后が沼津御用邸とのお別れのため訪れました。
このように皇室の方々に愛された沼津御用邸の存在が地域に与えた影響は大きく、消防防災活動の強化や保健衛生、教育文化面の充実、知名度の向上、地域経済の活発化など、多岐にわたったものと考えられます。
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